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WINDVANE

日々思ったこと、感じたことをつれづれなるままに。
椿に、三原山
Aちゃんといくはずだった伊豆大島。どうしても椿を見たくて、母を誘ってジェット船で片道2時間、日帰りで行ってきた。伊豆大島はたった2時間で外国にきたかのよう。三原山の景色に驚いた。撮影で一度行ったことはあったのだけれど、三原山は遠くから見ただけ。それでも、ゴジラがでそうな景色だなあ、恐竜の時代の景色だなあ、とびっくりしたのだけれど、近くで見たらもっとほんとにすごかった。レンタカー屋のおじさんに、椿を見にきた、と言ったのに、ここまできたら三原山に登らなくてどうする!と推されて、じゃあ行くか、くらいの気持ちで行ってみたのだけれど、おじさんの言うとおりだった。おじさんのおかげですごい景色を目の当たりにすることができた。太に興奮して電話すると、むかし、円錐形の三原山を見たことがあると言われてさらにびっくり。台形の形じゃない三原山を見ていたなんて。。。

伊豆大島
2008/03/15(土) 19:35:37 | | Trackback(-) | Comment(-)
祈りの島 久高島
1.2日と沖縄本島で撮影があり、翌日私だけ一日帰りを延長させてもらって、岡本太郎の忘れられた日本―』を読んで以来、ずっと行ってみたかった久高島に行くことができた。久高島は、本島の北部の安座真から高速船で15分 の日帰りが十分できる小さな小さな島だ。でもこの島は、とても聖なる島で、琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話聖地の島なのだ。そして、久高島には琉球王朝に作られた神女組織「祝女(ノロ)」制度を継承し、12年に一度行われる秘祭イザイホーを頂点とした祭事を行うなど、女性を守護神とする母性原理の精神文化をずっと伝えてきたそうだ。ただ、残念ながらイザイホーは、後継者不足から1978年から行われていないそうだ。
岡本太郎は、「沖縄文化論」のなかで、御嶽(神のおりる聖所)の「なにもないということ」に圧倒された、と、かいてあったが、それがずっと頭の片隅に残っていた。
以下抜粋。「御嶽には、神体もなければ偶像もない、そんな死臭をみじんも感じさせない清潔感。神はこのようななんにもない場所に降りてきて、透明な空気の中で人間とむかいあいうのだ。なに一つ、もの、形としてこちらを圧してくるものはなく、清潔で、無条件だ。だから逆にこちらから全霊をもって見えない世界によびかける。神聖感はひどく身近に、強烈だ。生きている実感、と同時にメタフィジックな感動である。神は自分のまわりにみちみている。」―と岡本太郎は感じたのだ。

その日は、那覇に住むニッカ時代の先輩Nちゃんと一緒に、琉球王朝の最高の聖地斎場御嶽(せいふぁうたき)をガイドさん付きで見学してから(斎場御嶽からは、久高を望み祈祷を行う場所があった。)、久高島への船に乗り、Aちゃんから紹介してもらった久高島案内人の苗さんに連絡がついて、島の中を軽自動車で、一緒にまわってもらうことができたのだった。苗さんは真っ白い髪をきれに束ねて、笑顔がとても美しい、とても素敵な女性だった。車に乗って、すこしすると苗さんは、外に向かって、「こんにちは」「元気?」と言うのだけれど、外には誰もいないので、「誰に話しかけているんですか?」と尋ねると「鳥や蝶によ」と言う。「え?」と、びっくりしたのだけれど、そのうちに、苗さんが「姿を見せて」と言うと、本当に鳥が前を通りすぎてくれたり、何度も何度もみせてもらううちに、あの挨拶はちゃんと鳥や蝶に通じているんだ、ということを信じられるようになった。苗さんは自然を波長を合わせることの大事さを教えてくれたり、人にとっての大事なことのいろんな話をしてくれた。その中でも、ずっしり響いた言葉は、「女性にとって、愛は受けるものではないのよ。愛は与えるものよ。」というもの。「与えてばっかりで、女の人の愛は枯れないのですか?」と尋ねると、苗さんは笑いながら、「枯れないわよ。だって、与えたら、相手はうれしくなって、笑顔になるでしょ?そしたらその笑顔を見て自分もうれしくなる。その繰り返しになるからね。」、と。女の人というものは、元々つよいものらしい。ついつい、ほしがってばかりになりがちになってしまうけれど、そうではないのだ。
聖なる御嶽や、浜へいくつも連れていってもらったのだけれど、小さい島なのに、久高島にはいくつもいろんな表情があった。勘が鋭いわけではないので、何かを感じるかというと、よくわからなかったのだけれど、でも、御嶽にお祈りをした後で、小道をぬけ、イシキ浜にでたときには、なんともいえないものがぐっとこみあげてきた。イシキ浜は毎年2回、ハンジャナシーの時に神々が乗った船が停泊する浜で、ニライカナイの「対岸」にあるとされ、五穀の入った壷もこの浜に流れ着いたと言われる浜で国王様もかつてニライカナイを遥拝しにここまで訪れていたそうで、祈りの場所だそうだ。岡本太郎のいう、御嶽の「なにもないということ」がすこしだけわかったような。昔の人は、きっと、誰でも聖なる場所を感じる力があったのだろう。それが、石や形のあるものをあがめるようになって、だんだん感じる力が衰えてきたのかもしれない。
苗さんに、海で身体で気を感じる方法を教えてもらった。力を抜いて手を広げて、ぐるぐるまわすとビリビリ感じる方向が自分にあった方角だという。私は、チリチリといろんな方角を感じたような気がした。

今回このタイミングで久高島に来れたことは、きっと何か意味あることだったような気がする。
もちろんそれはなんだかわからないのだけれど。。。
2007/12/06(木) 00:52:46 | | Trackback(-) | Comment(-)
天河弁財天の七夕祭り 2
ここにもあった後醍醐天皇の足跡が!(またもやなぜか嬉しい)
町役場のHPによると、以下抜粋。
「坪内地区の天河大辨財天社についても南朝に組しそれぞれ行宮とされました。なかでも天河大辨財天社の行宮では、宮中さながらの栄華を極めたといわれています。嘉喜門院集に「天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず」としるされています。
天川郷の人々も積極的に加担し、村内の地区ごとに傳御組(おとな組)を組織して忠勤を果たしました。」
後醍醐天皇の足跡の場所は、きれいに手入れをされていて、風がぬけて、とても村の人に大切にされている様子だった。

七夕祭りはイベントもりだくさんで、流鏑馬があったり、神様に捧げる奉納の舞があったり。その中でも、美内すずえさんの「紅天女」の舞台があったのには驚いた。壮大なスケールのお話しだった。それ以上に驚いたのは、灯篭流しのときに流れていた曲がトランスで、宮司さんたちが踊っていた。友達から、神主さんは、とびやすいらしいよ、と聞いていたがほんとだったのか!!日帰りするはずが、のりうさぎのご両親が、「夜まで見ていかなくてどうする!ホテルはキャンセルしなさい!」と強く勧めてくれたわけが、夜までいてわかった。懐深い弁天様。そうそう、ちょっと弁財天さまに伺いたいのですが、ひいたおみくじが「凶」で、それはまだ100歩譲ってよしとしても、「生死十に七分死ぬべし。」「何事も当ぶんよろこびなしとしるべし」というのはちょっときつすきやしませんか??

2007/08/22(水) 00:04:02 | | Trackback(-) | Comment(-)
天河弁財天の七夕祭
去年の夏、体調もすぐれず鬱々としていた時に、心配してくれた友達の紹介で、ダウジングをして、香りを調合してくれる人のところに行った。なんと、その人は香りの調合だけでなく、前世もみれるらしい、とい人で、「吉野の後醍醐天皇陵に行きなさい。あなたの魂が喜びます。」といきなり言われた。その人によると、私は、前世で後醍醐天皇に仕えていたようで、今でいう宮内庁の職員だったらしい。とはいえそれで、吉野に行こうとは全く思わなかったのだけれど、数日後に奈良への撮影の仕事がはいり、「これは一体どういうことだ??」とその偶然に驚き、結局そのタイミングで、後醍醐天皇陵と南朝のあった吉水神社に行ってきたのだった。でも、だからといって、何か感じたか、というのは全くなかったのだけれど、吉水神社でひいたおみくじで、恋愛のところに「今の人が最良」と書いてあったのが、実は一番心にこたえ、これを引きにきたのかなあ、と思ったりして。。そんなことがあってからというもの、南北朝時代、後醍醐天皇、吉野と気になるうちに、中沢新一のおじさんの網野善彦さんにはまり、白洲正子さんの「かくれ里」にはまり、吉野杉、熊野と興味の対象がどんどんひろがってきている。そうなると偶然の情報も入ってくるもので、今年はとうとう天川に移り住んだ両親をもつ友達の家にお世話になり、天河弁財天の七夕祭まで参加することになったのだった。

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2007/08/21(火) 23:04:38 | | Trackback(-) | Comment(-)
法隆寺
最後の宮大工とよばれる西岡常一さんの「木に学べ」を読んで、どうしても法隆寺を見たくなった。飛鳥時代が建築の頂点だったという。飛鳥時代の木造建築が今も残り、それが守られているといことを奇跡とさえ思う。その当時のやりがんなの跡ひとつひとつがとてもいとおしく思えた。西岡さんの本によると、飛鳥の大工は、木の性質を実によく知っていたという。山に生えていたとき、南側に向いていた木の面は、建築物としてつかう場合、そのまま南に向けて使ったという。それは、木は切り倒された後も、なお生命を持っているので、山に生えていたときと同じ方角で使うのが最良の選択であるという考えからだ。木の性質を知りつくし、これだけうまく使っているのは飛鳥時代までだったそうだ。人は自然とともに生きていられたのは飛鳥までだったのかとさえ思う。 
「樹齢千年の木は、建築材として使ってもそれ以降、千年の命を持つ」「木は二度生きる」と、西岡棟梁はさまざまな機会に語っている。
木造建築、木、道具。色々知りたくなってきている。


2007/08/20(月) 23:10:44 | | Trackback(-) | Comment(-)
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