WINDVANE

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最後の太通信
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拝啓、

このたび、夫、太の逝去に際し、お心のこもったお悔やみをいただきまして
本当にありがとうございました。

札幌は今、本当に気持ちのいいさわやかな夏を迎えています。
4月30日に、太が旅立って、2ヶ月以上がたちました。
とても一口には言い表せないほどの、
いろんな想いがつまった時間が過ぎていっています。

すこし前に太の荷物の整理をしていたところ、
1冊の小さなスケッチブックがでてきました。
こういうものが残っているとは思っていなかったので、驚きました。
この絵は一目見て、再発した後の去年の6月に
私たちが住んでいたニセコから近い黒松内のぶな林に
行ったときのものだってわかりました。

同封させていただいたカードは、
この絵と、太が最後に残した言葉を伝えたいという思いで作りました。

カードにも書きましたが、
「太は、45年の生涯を、名前のように、太く、濃く、生きました。」

太の人生は決して、平坦なものではなく、
重たい荷物を小さい身体で、一生懸命背負っていたように思います。
でも、逃げずに、悩んで、考えて、
自分がすべきことに正面からいつも向き合って、動いていました。
太は、「生きるとは?本当のこととは?」、
と必死に自分に問いかけながら、生きていたように私には見えました。

病気になったことによって、
さらに、そのことをより考えるようになったと思います。
「病気になって、悪いことはなにもないよね。
病気になったからこそ、気づけたことがいっぱいあるから。」って、
太が言っていたことは、私には、とても印象的でした。
太が、自分のブログのタイトルにつけた、
「今日もいい日だ!~病気になったら気がついた!この世はなんておもしろい!」
というのが、それを一番物語っているとように思います。

今まで気づかずにいたものが、愛おしく感じられるようになったり、
この世に存在するものすべてが、今までと違うように見えるようになったのかもしれません。
そして、なにより、
たくさんの方々の温かい気持ちや行動が、太の生きる力を後押ししてくれていました。
人を想う気持ちが、距離を越えて届くことを知りました。

病気になってから亡くなるまでの2年の間、太はどんどん変わっていきました。
病気がわかってから、
再発してから、
3月11日の震災が起きてから、
そして、自分の命がもう長くないことを知ってから。
太は、どんどん自分の殻を脱ぎ捨てていき、
本当の太になっていったように思います。

最期に太は、「生きるとは?本当のこととは?」、
自分で答えを見つけて、旅立ったように、思います。

太と一緒に過ごした11年が、短いのか長いのかは、私にはわかりません。
ただ、とにかく濃い時間だったことは間違いありません。

太は、もともと、絵を描くことが大好きで、
手先が器用で、ものを作ることも大好きでした。
何かをするときの集中力たるや、ものすごいものがあります。
1年かけて、ドームハウスをセルフビルドで建てた時や、
木挽きをしていた時に、それを驚くほど発揮していました。
カードの写真の木挽き用のオガ(大きなのこぎり)も、
鋼材から買ってきて刃の焼き入れもして自分で作りました。
サーフィンを愛し、スノーボードに出会い、木を愛し、
着物に料理にテンコクに、大工道具にと、
いろんなことに興味をもち、すぐにどっぷりはまって、
子供のような純粋な心を持ったまま、大きくなったような人でした。

実は、太は、亡くなる前にこう言っていました。
「絵がまた描きたい。俺が本当にしたかったことは、絵を描くことだったんだ。」、と。

太の最初の記憶は、絵を描いていたこと、だったそうです。
高校を卒業してからは、セツ・モードセミナーに行き、絵を描くこと、
そして、サーフィンに明け暮れていましたが、
「描きたい絵を描く」、という純粋な想いだけで
絵を描けなくなってきた自分に気づき、
卒業して、東京からニセコに移り住んでからは、
絵から全く遠ざかってしまいました。

「大きい画用紙に、太い筆で水彩画を描きたい。
今の自分がどんな絵を描くのかすごく楽しみなんだ。」、と言って、
体力ができて、絵を描けるようになる日を何より心待ちにしていました。

しかし、それが叶わないまま、太は、旅立ってしまいました。
私も、太が、どんな絵を描くのかすごく見てみたかったです。
太から「絵をまた描きたいんだ」って、聞いたときに、
「そのために今までいろんな経験をしたんじゃないかな。
20年以上、遠回りしたように思えるかも
しれないけど、全部それが必要なことだったのかもね。」って、
話したことを覚えています。

太が描きたかった絵が、どういうものになるのか、
さっぱり見当もつかなかったのですが、
(それは、本人でさえ、描いてみなければわからないと言っていましたが)
「今の太が、描く絵なら、絶対にいい絵のはずだ。」って思いました。
だから、「太の絵と私の写真で二人展をしようね。」、って約束しました。

大きい画用紙に、太い筆で描く絵ではないけれど、
スケッチブックの中から、
さわやかな風が吹いてきたように思えたこの小さな絵と、
太がすべてを受け入れて、最期にいきついた境地の言葉と、
私が撮った太のポートレートを入れて作ったこのカードが、
きっと、太と私の二人展なんだとおもいます。

亡くなる日の前日の夜のことです。
肺炎をおこし、酸素マスクをして、苦しそうにしていましたが、
このときはまさか、翌日が最後の別れになるとは全く思っていなくて、
私たちは、一晩中話しをすることができました。
そのとき、私は、今のうちにいろんなこと聞いておかないといけない、と思いついて、
「これは誰にあげるの?とか、お葬式はどうしたい?」とか、たずねていきました。

太は、
「地味に、地味に。戒名もいらない。
墓は、宗教も宗派も関係なく集団で入れるのがあるから、それでいい。」と言いました。
「散骨は、山がいいの?海がいいの?」とたずねると、
「山も。海も。」、と答えが返ってきました。
「じゃあ太朗君に一番いい場所連れていってもらうからね。」
と、私は答えました。

亡くなる日の午前中は、太は、母親に遺言をきちんと話していました。
夕方、大好きな愛犬ミミーの到着を待って、
ミミーにも会えて、主治医の先生、看護士さん、
家族や友人に見守られ最期は、「もういいから。」って自分で酸素マスクを外し、
私の腕の中で静かに息を引き取りました。

通夜、葬儀は、太の意思通り、
宗教色のない献花だけのシンプルな自由葬という形で、
本当にたくさんの方が参列していただき、見送ることができました。
太の大事な友人のGENTEMSTICKの玉井太朗さんに葬儀委員長をお願いし、
ニセコの仲間の手によって作り上げられた、心のこもった式になりました。
六人の友人が順番に話していってくれたのですが、
どれも深い想いが込められ、会場は、静かな熱気に包まれました。
会が終わって、夜がふけても、お棺の中に入った太を囲んで、
ビールを飲みながら、みんな談笑。
ニセコらしい、太らしい、素晴らしい会になりました。

そして、これは内緒なのですが、これも太の遺言によって、
お骨のほんのすこしだけ、
太の仲間たち20人ほどと一緒にニセコの山に登り、散骨してきました。
私は、10年ぶりのスキーだったのですが、
リフトを乗りついで、最後山頂まで30分ほど歩いたのですが、
本当にきつかったです。
でも、太の仲間たちは、みな素晴らしいプロスノーボーダーやプロスキーヤーなので、
そんな面々にガイドしてもらいながら、どうにか山頂までたどり着けました。
この贅沢な山登りは、天皇陛下のスキー並みでした。ロイヤルスキー。(笑)
山頂から見た景色は、本当にすごかったです。
太が大好きだった景色だったんだなあ、って思いました。
散骨が終わった後、最後は、みんなのとびっきりの滑りを、
私は、初めて生で見ることができて、
感動しました。本当にいい日でした。

お通夜から散骨まで、ずっといい日が続いていました。
太はいないのですが、
太の想いや、太への想いが、こうして、みんなにいい日をつくってくれています。

太は、肉体はなくなっても、
きっといつも一緒にいてくれているんだとおもいます。
毎日私と一緒にごはんを食べながら、
窓から見える円山の変わっていく景色を眺めているのかもしれません。
それに、桜になったり、緑の木になったり、
なりたいものになれるようになったのかもしれません。

なんて、書きながらも、やっぱり肉体がないということは、
とてもとても寂しいことですね。
ほんとは、やっぱりいままでのように、
「ずっと一緒に景色の変化を見たかった。」ってまだまだ思います。
今までみたいに毎日いっぱいしゃべって、
そして、もっともっと一緒に年を重ねたかったです。

最期の晩にこんな約束しました。
「私とミミーのこと、いつも守ってね.。
それから、姿が見えなくなっても、ここにいるよ、
っていうサイン、今のうちに決めておこうよ。」、と私が言うと、

太は、「博美、写真いっぱい撮りな。そのときは、いつも横にいるから。」
って、言いました。

だから、私はこれからもいっぱい写真を撮ります。
私が撮るものを、太も一緒にみているはずだから。

皆様、これまで長い間、私たち夫婦を見守ってくださり、
本当にどうもありがとうございました。
末筆ながら、皆様の今後益々のご健康をお祈りいたします。
敬具

平成23年7月
石川博美
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