WINDVANE

日々思ったこと、感じたことをつれづれなるままに。
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ニセコの山に眠る
大きな声では言えないけれど。。。

太の遺言どおり、
彼の山の仲間たちとニセコの山にのぼって、
太を自然に還してきた。

太にとって、ニセコの山には、思い出がありすぎる。
忘れられない出来事も、楽しかったことも
この山はぜんぶ知っている。

大好きな風をいつも感じられて、
遠くの山々まで見えるこの場所は、
冬になればいつもみんなと一緒にいることができ、
そして、みんなを見守ることができる。




今回、わたしは10年ぶりのスキーで、
リフトを乗りついで、
最後山頂まで30分ほど歩いたのですが、
本当にきつかったです。

でも、太の仲間たちは、
みな素晴らしいプロスノーボーダーやプロスキーヤーなので、
そんな面々にガイドしてもらいながら、
どうにか山頂までたどり着きました。

この贅沢な山登りは、天皇陛下のスキー並みでした。
ロイヤルスキー。(笑)

山頂から見た景色は、本当にすごかったです。
太が大好きだった景色だったんだなあ、って思いました。

散骨が終わった後、
最後は、みんなのとびっきりの滑りを、
私は、初めて生で見ることができて、感動。

本当にいい日でした。

お通夜から散骨まで、ずっといい日が続いていました。
太はいないのですが、太の想いや、太への想いが、
こうして、みんなにいい日をつくってくれています。


IMG_1484_散骨太朗君

IMG_1478_散骨

photo by rip
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ありがとうの会
5月2日 18:00~ 太を偲ぶ会(ありがとうの会)
5月3日 10:00~ 太を送る会(ありがとうの会)

通夜、葬儀は、太の意思通り、
宗教色のない献花だけのシンプルな自由葬という形で、
本当にたくさんの方が参列していただき、
見送ることができました。

シンプルにお花だけで作ってもらった祭壇。
そして、そのまわりには太ギャラリーができていて、
太という人間がわかるような大事なものたちが並べられていました。

サーフボードに、スノーボードの板、
太が鋼材から買って作った大きな3本のオガに、いつも着ていた半てん。
みんなが撮ってくれたものと、
わたしが撮った太の写真,
そして、太が魂をこめて作ったローカルマガジン。

太の大事な友人のGENTEMSTICKの玉井太朗さんに葬儀委員長をお願いし、
ニセコの仲間の手によって作り上げられた、
心のこもった式になりました。
六人の友人が、
太がニセコにきてからのことを
時代を追って順番に話していってくれたのですが、
どれも深い想いが込められ、会場は、静かな熱気に包まれました。

1.ニセコにきた当初の話をスノボーダーの遠藤明郎さん
2.雪崩事故の話をカメラマンの渡辺洋一さん
3.雪崩調査所時代を太田稔さん
4.東山のコース作りの時代をプロスノボーダー高久智基さん
5.ドームハウスを作った時代を桑原透さん
6.入院時代を画家の宮本健さん

そして、最後に私が喪主挨拶で、
病気になってから、亡くなるまでの話と
太が残した言葉を伝えました。

このスピーチの構成がすごくよかったと思いました。

カードにも書きましたが、

「太は、45年の生涯を、名前のように太く、濃く、生きました」

太という人間が、
東京からまったく違った環境のニセコにきて、

どんな体験をして、
どんな風に考え、
どんな行動していき、
どう変化していったか、どれだけ変化していったかが、

時間軸を通してみんなのスピーチから、それが浮かび上がってきたからです。

私は、太と一緒に過ごしたのは、最後の11年間なので、
太がニセコにきた当初のことや、雪崩事故のときのことは、ほとんど知りません。

石川太という人間が、
自分の人生の体験を通して、
最後の最後にたどりついたいちばん大事な言葉を、
聞くことになった私にとっても、

どうして、こういう考えになっていったのか、
どうして、こういう行動になっていったのか、

自分の知らない太の人生の話を聞くことができて、
もっと太を知ることができました。

人は体験を経て、どんどん変わっていきます。

私にしてみたら、
太みたいにこんなに変化する人っているのかな?
って思うほどでした。
でも、それだけの体験をしたってことなんですよね。

太は自分の生き方を背中でみんなに見せてくれていたと思います。

「人は肉体を持つのは、いろんな体験するために生まれてきたんだ。」って。

太は、きっとこのことをみんなに教えてくれたんだと思います。


だからこそ、
あのスピーチのときの会場の、
なんとも言葉にできないような濃密な空気というのは、
太の生きてきた道を、みんな一生懸命聞きたかったんじゃないかな、
ってわたしは勝手ながらそう思いました。

太君に言われた一言が、
「自分の人生を変えたんだ」とか
「いまでも、心に残ってる。」とか
何人もの人から聞きました。

こうしてたくさんの人の心に響く言葉を残したんだと聞くと、
太がその人のことをどれだけ大事に思って真剣に接していたんだろう、って思います。

会が終わって、夜がふけても、お棺の中に入った太を囲んで、
ビールを飲みながら、みんな談笑。
顔に落書きされそうな勢い(笑)

「ふ、と、し。ふ、と、し。」という大合唱のなか、
下のようなお葬式とは思えない集合写真さえ撮れました。
(写真を撮ってくれたrip君ありがとう!!)

常識とか、こうでなきゃいけない、
という枠をとりはらいたかった太の意思どおり、
太を愛してくれた人たちの手によって、
、ニセコらしい、太らしい、素晴らしい会になりました。

太がどれだけみんなに愛されていたのか、と
この日どんなに感じたかわかりません。

ほんとうの意味の「死を悼む会」だったと思いました。
こんなにすごい会はどこにもないって思いました。


futoshi_201104 550_太祭壇

futoshi_201104 519_祭壇02

futoshi_201104 507_ita


futoshi_201104 502_magajinn


IMG_0659_syuugou
太を偲ぶ会~「ありがとうの会」前夜
太が亡くなって、
病院に付き添って寝泊りしていて、寝てなく
頭もぼーっとしているところに
葬儀屋さんとの打ち合わせが始まった。

祭壇はどうしますか?
どんな棺にしますか?
どんな形式にしますか?

悲しむ間もない。

どんな風にお葬式をしたらよいのか途方にくれていたところに、
ドームには、太朗君、ともきくん、バブさんたちが
手伝いに集まってくれたので、ほっとした。

太が言っていた
「戒名もいらない、墓もいらない位。地味に地味に。」
そして、
「散骨は海と山に。」、という話をみんなに伝えた。

「そうは言っても、お坊さんがいるふつうのもいいんだよね。」
、と言う人がいると、
わたしの気持ちもぐらつく。

太らしくしたい。
でも、太らしいってどんなの??
寝てない頭で考えがまとまらない。

そんなところに、バブ兄が一言。、
「通夜、葬式っていうのはな、
太に最後の挨拶をしに、みなさんにいらしていただく会なんだよ。
迎えるおれらの側が、
誠意をもって、いらしていただいてほんとうにありがとうございました。
って気持ちをあらわしたら、
カタチなんてどうでもいいんだよ。」

、という一声で、集まってくれたみんなの気持ちは、ひとつになった。

太朗君が、
「ひろみだいじょうぶだよ。あとは俺たちにまかせて。」、と。

それからの
ニセコのみんなの一致団結がすごい。
太の死
後から人に、
ずっと看病していたのだから、「覚悟していたでしょう」、
と言われたけれど、

私は最後まで、太が死ぬとはまったく考えていなかった。
死ぬ、ということが頭の中にぜんぜんなかった。

抗がん剤も効かなくなっていたし、
苦しそうな様子をみていたけれど、
それでも、死、というのはぜんぜん頭に浮かばなかった。

「だって、太だよ。
そう簡単に死ぬわけないよ。
奇跡だって起こるはず。」って、信じ込んでいた。

でも、亡くなる数日前から
肺炎を起こし、どんどん呼吸が苦しくなっていった。

酸素マスクをして呼吸を確保するのも苦しそうで、
ベッドに座っているのもつらそうになってきた。

太は先生に、
「モルヒネをうちましょうか?」
、と聞かれても、首を横にふって耐えていた。

でも、
ほんとうに、どんどん苦しくなってきて、
とうとう、モルヒネをうつことになった。
太よりも、まわりのみんながつらそうな太を見ていられなかったからだ。

モルヒネをうつと、痛みが麻痺する。

わたしは、もう何日も何時間も太の手や体をさすり続けていた。

太はわたしに、
「もう電話もメールもしないで。どこにもいかないて。ずっとそばにいて。」と、言った。

ほんとうに、太は心の底から、わたしにそばにいてほしかったんだとおもう。
もちろんわたしもいたかったのだけれど、
その想いは、
わたしより太のほうがずっとずっとつよかったはず。

なぜなら、
太は自分の命が、ほんとうにあとわずかだったことがたぶんもうわかっていて、
わたしは
まだほんとうに太がいなくなる、ということがわかっていなかったから。

これは、とてつもなく大きな違いだ。

太は亡くなる前日に、
「ひろみ、爪きりとって。」と言って、自分で丁寧に指の爪を切って、
「頭がかゆいから、看護士さんに、体をふくタオルもらってきて」
、と言い、頭や体を気持ちよさそうに、看護士さんと太母にふいてもらっていた。

そして、太は、
自分の分身のミミーの到着を待って、
ミミーに会って、ちゃんとお別れをして、

太とミミーとわたしで最後になる家族写真をとったあと、

太が自分で酸素マスクを外して、
「もういいから。」、と言って、
わたしの腕のなかで、みんなに見守られて、
ほんとうに静かに、自ら死んでいった。

後から考えたら、太はもうぜんぶわかっていたとしか思えない。

ところが、
わたしは、太が死んでいくということを、目の当たりにしても、
起きてることがさっぱり理解できなくて、
理解したくなくてなのかもしれないが、
呆然としてしまった、





呆然とする中で
ふと浮かんだのが、

「ああ、やっぱり人って死ぬんだ。」

ってことだ。

そして、
「人が死ぬってなんてあっけないんだ」、って。


そのときの気持ちを言葉にするのはとても難しいのだけれど、
かたくなに
太が死ぬわけないと思い込んでいたし、、
奇跡というものが本当に太なら起こってもおかしくないって思い込んでいたからこそ、
よけいにそれがあっけない、とおもったのかもしれない。

でも、
よくよく考えてみると、
ブッダが亡くなったのも、キノコの食中毒が原因だった(?)って
聞いたことがある。

あのブッダの死でさえ、そうだったなら
人の死というものは、案外あっけないものなんだろう。

私は本当に、「死」というものをわかってなかった。

祖父母を亡くしてはいるが、
実際に見取ってはいず、人の死に立ち会ったことがなかった。

人の死を体験したことがなかった。

死というものは、
誰にでもやってくるもので、当たり前のこと。
これを頭では理解していても、
ほんとうのほんとうにはわかっていなかった。


RIMG0152_太と博美の手

DSC_7863_教会の扉
忘れられない夜
亡くなる日の前日の夜、
太は酸素マスクをして苦しそうにはしていたけれど、
わたしたちは一晩じゅう話をすることができた。

でも、次の日がほんとうの別れの日になるとは、
わたしは夢にも思っていなかった。

それでもなぜか、
いまのうちに聞いておかなきゃ、
と思いたち、いろんなことを聞いていった。

ひ「大工道具は?」 
ふ「札幌にもってきた大事なものは全部大樹にあげて。
  ドームにあるのは、ニセコのみんなに。
  みんながいつでも使えるようにするのがいい。」
  (大樹君というのは、太の甥っ子で、京都で宮大工の修行中)

ひ「おがはどうする?」 
ふ「谷村さんに相談して。」

サーフボードは?スノーボードの板は?、と次々に。

それから、
「そうだ、太、お葬式はどうしたい?」と聞くと、
太は、
「地味に、地味に。戒名もいらない。
墓もいらない位だけど、日本はどこか入らなきゃいけないみたいだから、
集団で入れるやつがあるからそれでいい。
キリスト教でも、仏教でも、何教でもはいれるやつ。
なんにもいらない。
宗派もいらない。」

「散骨したい?山がいい?海がいい?」、と聞くと
「どっちも。」、と答えが返ってきた。

「じゃあ、太朗君に一番いいところに連れてってもらうからね。」、
とわたしは答えた。

それから、太は、
「でもね、ひろみ、そんなお金使うなら写真集につかいな。」と。


「それから、ひろみは、おれがいなくなったら、
中島博美に戻りな。おれはそれがいいと思う。」

「さびしくないの?」とたずねると
「さびしくなんて全然ない。ひろみはその方がもっと自由になれるから。」って太は答えた。


「ふー、姿がみえなくなっても、わたしとミミーを守ってよ。
ちゃんとここいるってサインだしてよ。」、と言うと、

太は
「ひろみは鈍感だから気付かないよ。
 ひろみ、いっぱい写真とんな。
 そのときはいつも横にいるから。」って。

「自分を信じてどんどん写真撮って。
 写真集作るときは、自分で写真選ぶんだよ。」って。

太は、わたしに、
かかえきれないほどいっぱい想いの詰まった言葉をのこしていった。

ser_2011_30_01_光る鳥
太のニセコ
太は亡くなるまえに、

「ニセコに戻りたい」と言っていた。

「津波で家が流された人たちがまたそこに住みたいって言ってた気持ち

最初はぜんぜんわからなかったけど、わかるようになった。

そのコニュニティの中で生きていきたいんだよね。

そこにいると安心していられるんだよね。

おれね、ニセコを離れて初めてわかった。

守られていたんだ、って。」
ほんとうの自分にきづいたとき
亡くなる前日の午後こと、
りかちゃんが来てくれて、入れ違いにさとわ内科クリニックの先生がきてくれた。

太は、
ずっと手を握ってくれていたりかちゃんが帰る間際に、
「自分に正直にね。」、と声をかけ、最後のメッセージを送っていた。

そして、
さとわ先生が、部屋にはいってくるなり、
「先生、おれは、なんにもわからないで生きてきたよ。」、と言い出した。

「おれはね、本で読んだことをわかったつもりできたけど、
ほんとは全然わかってなかったよ。」、と。

先生は、
「幸せになるには、なんにもいらないってわかっただろ。」って
答えていた。


わたしは思った。
太のこの言葉のすごさを。

いままで築いてきた自分を否定するような言葉を、
最後に言えるなんて。

というか、
ほんとに、気付いたんだとおもう。

この言葉を、太は口からだせて、すごく楽になれたはず。

「ひろみと一緒にいれればいい。それだけでいい。」
、という言葉もそうだ。

太は、最後の最後に、
自分の上に知らず知らずのうちに
のせてしまっていた重しを
ぜんぶとっぱらって、本当の自分になった。

だから、もう旅立ったんだって、そうおもった。


ser_2011_44_05_木と空間






太が死を目の前に意識したとき 2
主治医の先生から、私も呼ばれて、太と話を聞いた。
「これからは、治癒のための治療ではなく、
緩和していく治療にはいります。」、と。

わたしは、必死になって、
自分にできることを探した。

太に「なにがしたい?」
、と聞くと、
「ひろみと一緒にいれればそれでいい。もうそれだけでいい。」って
答えが返ってきた。

わたしは、
「それはわかったから、ほかには?」
、と、そのときは答えてしまった。

いるのは、もちろんいるから、と思ったのと、
もっと何かしてあげたい、なにかしたい
、という気持ちにばかりなってしまっていたから。

でも、太は、
たぶんそれだけが、ほんとうの望みだったんだとおもう。
なによりも、わたしと一緒にいたかったんだとおもう。

わたしは、
外に外に、なにかできることを探してしまっていたけれど、、
本当は、そんなことは必要じゃなかった。

もう外からのものはなにもいらなくて、
わたしには、自分の中から、太にあげられるものが十分にあったんだとおもう。
そのことに、亡くなるぎりぎり前に気付いた。


太がもっとほんとうに、ほんとうに
わたしと一緒にいたかったんだって
気付いたのは、やっと最近のこと。

太のあのときの言葉の意味が、
わかったような気になっていたけれど、
ほんとうにどれだけ、それを思ってくれていたのかと、
今になって、痛いほどわかるようになった。


20110730_1048_キャロット草





太が死を目の前に意識したとき 1
4/20のブログにも書いたけれど、
さとわ先生に初めて会って、太と先生が話したことを
なんども思い出す。

「自分に対する正直さで、自分を生きれるか。」

これが、一番大なことなんだって、何度も先生は言った。

そして、

「生まれたら、死ぬのは当たり前。
 みんな100年後は生きてないって思ってるけど、
 でも、明日は生きてるって思い込んでる。
 何が起こるかなんて、そんなことは、ほんとにわからないことなんだ。」

「もう、使う抗がんがないって
 医者から言われた意味わかるだろう?

自分で自分の寿命を決めなさい。
 いま、追い詰められてるんだったら、
 いま、夢だったことをやった方がいい。
 本音でいきればいい。」
 
「自分の人生をここから生きなさい。
ふたりで誠実に向き合いなさい。」、と。

「人は1秒で考え方は変えられるんだ。
 治る とか 治らない、とかどうでもいい。
 治ってないけど、余命1ケ月の人がなんだかわからないけど生きてるって人いるだろう?
 そういうギリギリの人が、何かにきづいた人にはこういうことが起きる。
 人の体ってほんとにわからないんだ。」

それから、

「病気であるから、不幸であることはない。
 病気の人はナイーブになる。
 病気だからこそ、人の誠実さ、不誠実さがみえてくるだろう。
 病気になって、自分が見えるようになる。

「みんなね、こわいんだよ。
 だから、僕は、こわくないんです。ってみんなに教えてやれ。」

「いま生きてるんだから、幸せになる道みつけようよ。」




太は、さとわ先生に会った翌日の朝、回診にきた主治医の先生にたずねた。

「ぼくはあとどれくらい生きられますか?」、と。

すると先生は、
「それは誰にもわからない。ただとてもきびしい状態にあります。」と言ったそうだ。

太は、先生と話した直後に、電話をくれ、
「昨日、さとわ先生が言ってたことはほんとだったんだ。
おれは、ほんとうに治るって信じていたんだよ。
でもそうじゃなかったんだ」、と。

そして、私も言葉をうしなった。

RIMG0519_雨
涙鼻水製造マシーン
それにしても、涙と鼻水って涸れないものだなあ。
すっかり涙鼻水製造マシーンになっている・・・

太が亡くなる日の前日の昼間のこと。
酸素マスクをして苦しそうにしている太の前で、
太の背中をさすりながら、私は、ずっと泣き続けていた。

涙がでると、鼻水もとまらない。
ごみ箱は鼻をかんだティッシュの山になっていた。

「かんでもかんでも鼻水が止まらないよお。
ねえ、太、どうやったら鼻水止まるんだろ?」
って何気なくつぶやくと、

太は酸素マスクをはずし、
ティッシュを箱からとって、
チンチンと鼻をかむマネをして、
一回かんだあとのティッシュを二つ折りにして、
また、チンチンと鼻をかむマネをして
もう一回かんだあとのティッシュをさらに二つ折りにして、
また、チンチンと鼻をかむマネをして
二回かんだあとのティッシュをさらに二つ折りにして、

「最後まで出し切る。」、と言った。

「あれ、もしかして、いま鼻のかみ方教えてくれたの?」

亡くなる前の日まで、
鼻のかみ方教えなきゃならないなんて。

鼻のかみ方だけじゃない、
車の運転もど下手。
なにやってもあぶなっかしい。
ボタンがとれたらつけてくれるのも、
ごはん作るのも太。
ぜんぶたよりっぱなしできたから、
どれだけ太が私を残していくのを心配だったんだろうっておもう。


20110730_979_72_黄色いガラス


想いが、カタチになって届く
今、時おり届く手紙に心が救われている。

想いが、カタチになって届く。

どの手紙にも、あたたかい想いがあふれていて、
それがひしひしと伝わってくる。

読みなおすたびに、鼻の奥がつんとして、涙がこみあげてくる。

そういえば、
太は、入院中、届いた手紙を大事にファイリングしていた。

「自分は、まだ生きていていいんだっておもう。」って言っていた。

自分が忘れられた存在ではなく、
離れていても自分のことを想ってくれる人がいる
、というのは、太にとって切実な想いがあったんだと、
いま、あらためて知ることになっている。

そして、私も人の想いに助けられている。

手紙、というものが
どれだけ、ひとの心を温めてくれて
生きる支えにもなりうるのかとおもう。

***

パートナーを亡くされた年長の方たちから、いただいた手紙に涙が止まらなくなった。


一人は写真学校時代の友人から。

「楽しいこと、悲しいことがあるたびに、
夫はいないのだと深い寂しさにおそわれました。
ケンカもしましたが、よく話しをする夫婦だったとおもいます。
でも、いつの頃からか、
あっ このこともあのことも向こうへ行ったら話してあげよう
と思えるようになりました。
ずいぶん時間はかかりましたけれど…。

月並みですが、時の経過は悲しみを少しずつ流してくれます。
幸い、貴女には自分の世界があります。
前を向いて、自分を大切に暮らしてください。
きっと応援してくれています。

がまんしないでたくさん泣いて、涙を流してください。
身体が軽くなって少し前へ進めると思います。」、と。


そして、写真学校時代のデッサンの先生から。

「何年たっても、いつものように、
戸を開けて、買い物の荷物を両手に持って、
ただいま、と帰ってくるように思われて、
一日も忘れたことはない。

今は心ゆくまで何も考えないで、心の底まで悲しんで、
だんなさんの太さんのことを思い出して、
しばらく静かな心を持っていてください。

明けない夜はない。雨が止まない嵐もない。
そして、年が明ける頃には、又、体の中から力が湧いて、何か作りたくなるでしょう。」、と。

***

パートナーを失ってしまった悲しみが、
どれほどのものなのか深く深く胸にしみる。

これは、体験した人でないと、わからない悲しみの深さだ。

「がまんしないでたくさん泣いて、涙を流してください。」
「今は心ゆくまで何も考えないで、心の底まで悲しんで、」
という同じ想いをした人たちから届いた言葉が胸に響く。

泣いていいんだ、って。我慢しなくていいんだ、って。
無理して笑わなくていいんだ、って。

私も、なにかで気を紛らわそうなんて気にはまったくならない。
いまは太のことを想う時間にしたい。
ただそれだけ想う。

デッサンの先生と電話で話したときに、
私が「時間がたって、太のことがだんだんうすれてしまうのがいやだ。」
、というと、
先生は、
「気持ちがうすれるんじゃなくて、
気持ちが落ち着いてくるんだよ。」、と言った。


わたしは、いろんな想いが
おもっては消え、おもっては消えていくように感じていたけれど、
ほんとうは、
心の深いところに、たまってきているのかもしれない。

そんなことをつらつら考えていたら、
なにか書いていこうという気持ちになってきた。

記憶がとおくなってしまわないうちに太のことを。

そして、いま自分がなにをおもっているのかを。

そして、いま目にはいってきたものを写真にとっていこう、と。

20110817_ 010_72_ran
景色が変わる
太が亡くなって、3ケ月以上が過ぎた。

最初のころ、人ごみの中で、ふと思ったことがある。
「この中にも、家族や大事な人を失くした人ってたくさんいるんだろうな。
みんなどうやってそれを越えてきたんだろう」、って。

言葉にできないほどたくさんの想いのつまった時間が過ぎていっている。

わたしの日常は、太が亡くなってからがらっと変わってしまった。

一日のうちで誰よりも長く、
そして、なんでも話せる一番の話し相手が
この世からいなくなってしまった。

毎日、何度も思う。
ねえ、太きいてよ。こんなことあったよ。
ねえ、太だったらどう思う?

くだらない話から大事な話まで、
気をつかわずに、これだけ話せる人は他にはいない。

たしかにたくさんケンカもした。
でも、そのケンカは、
たとえわたしがどんなにひどいことを言ったとしても、
この人は私のことを絶対に嫌いにはならない、
っていうベースのもとにするもので、
より二人の関係をよくしていきたいからするものだった。

知らず知らずに、
ほんとうの家族になっていた。

大事な人を失うということは、
自分の分身がいなくなってしまったようで、
自分が半分になってしまったようにおもう。

太がいなくなってからずっと
海のなかに潜ってしまっていたような、
なにが現実なのかわからなくなってしまったような
そんな感じがずっとしている。

お母さんを失くした友達がが言っていた。
「今までと見えていた景色が変わって見えた」、って。

みな口々に、
時間が経つことしかない、
と言うけれど、ほんとうにそれはそうなんだろう。

でも、太がこの世からいなくなってしまってから、
これほど時間というものが長く感じたことはない。


20110823_1531_420_青い沼



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