WINDVANE

日々思ったこと、感じたことをつれづれなるままに。
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宇宙樹
マラムレシュの村の一つを訪ねたときに知り合ったマリアが、
村の中をいろいろと案内してくれた。

ここでは、木で作られた立派な彫刻がほどこされている
大きな門のある家が多い。

下から上にのぼる柱の模様についてきいてみると、

「木は天と地をつなぐものだから。」、と答えが返ってきた。




マリアから聞いた話を、以前読んだ
中沢新一の「哲学の東北」の中にあった気がして、読み直してみると、
そこには
マラムレッシュの柱の模様やについてや、
その彫刻をほどこす大工さんの話が書かれてあった。
とても興味深かったので以下引用。

「ルーマニアの宗教学者エリアーデの本の中に、
宇宙の中心に生えているという、
生命の樹についての記述がたくさんあった。
それによると、
昔のルーマニア人は、この植物の象徴を身近におくことで、
いつも枯れることのない、みずみずしい生命力を、
わがものにしておくことができる、と考えていたのだという。」

<マラムレッシュの大工さんの話>

●「木が空に突き刺さっていくように、
いつも動いていえる宇宙は、その宇宙樹をとおして、
人の世界に陥入してくるのです。」

●中沢氏:
「なぜ教会を石ではなくて、木で作ったのでしょうか?」、と尋ねると

 大工:
「もちろん、石で造ったってかまわないのです。
でも、私たちは。木で作った教会のほうをはるかに自分たちの趣味に合うものとして、
気にいるでしょう。なぜだろう。
それは、たぶん、木造の教会のほうが、動いているからだと思います。
石造りの教会だと、いったん建ててしまうと、半永久的にその場所に建ち続けることになります。
それは、堅固で、確実な中心の感覚をあたえてくれますが、
それはあの宇宙樹の中心の感覚とは、微妙なところでちがいます。
どこがちがうかと言うと、
木でできたものは、石が封じこめる時間の感覚を、建物の中に豊かに、解き放ってくれるからです。

木でできた教会は、たえず修理をほどこし、何年かするとまた立て替えなければなりません。
そのため、生き物と同じように、同じ自分のままでいることが、できないことになります。
逆に言うと、教会の本体は空間の中にあるのではなく、
空間と時間が一体になった、動き変化していくものにこそ、
見いだせることになるでしょう。
木で造ると、教会本体は、目に見えないものになるのです。
それは音楽と同じように、時間の中に展開されていって、
はじめて全体があらわれてくるようになるものです。
私たちは、心から音楽を愛しています。
これは、音楽が心ではとらえることができるけれど、
目では見ることができない、高い次元の存在を
私たちに教えてくれるからです。
私たちはたぶん、建築物のようなものでさえ、そういう音楽のようなものに、
つくりかえてしまいたい、と思い続けて、とうとうこういう木造の教会を、
作り出すようになったのかもしれません。


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2012/01/28(土) 13:32:51 | | Trackback(-) | Comment(-)
マラムレッシュの木造教会
太と「いつか行こうね」、
と話していたルーマニアのマラムレッシュの木造の教会を
見にいってきた。
ずっと行きたいと思っていた念願の場所だ。

ルーマニアの慣れない電車やバスを乗り継いで、
バス停からてくてく歩いてやっとたどり着いたこの教会を
目にしたときには、本当にぐっときた。

釘もつかわず、
屋根から壁からすべて木だけで作ったこんなに素晴らしいものを
ドームハウスを作ったり、木挽きをしていた太が見たら、
どれだけ喜んだことだろう。

この地では、もみの木をとても尊く思っていて、
教会だけでなく
家も門も、それからゆりかごから、スプーンにいたるまで、
みんなこの木を使うそう。

太は、木のことや木でできた建物について、
よく熱く語っていた。
それをよく聞かされていたからか、
少しずつ私も建築や木に興味をもつようになった。


門についている呼び鈴をならしたら
近くに住む人が鍵をもってきてくれて、教会の中にはいることができた。

木でできたもの独特の空気感を感じる。

ずいぶん年数はたっているが、
この村の人たちが代々祈り、
大事に守ってきたことが中に入るとさらに伝わってきた。

こういう中に入ると、
自然と、
祈りたい、という気持ちになってくる。


ser_2011_122_02_420_きょうかい
2012/01/27(金) 01:44:07 | | Trackback(-) | Comment(-)
ずっと思ってきたこと。
太が亡くなったときのことが何度も何度も浮かんでくる。

答えなんて、
本人の口から聞けることはもうないんだし、
一生わかることはないんだ、と思っていながらも、
でも、ずっと
「なんでだったんだろう?」と考え続けてきたことがある。

それは、
最後に太が、
「もういいから。」、と、自分で呼吸器を外して、
亡くなっていったことだ。

私は、頭では、
「太は、自分の命というものをわかっていって、
自分で決めて旅立っていった。」と、思っている。

でも、やっぱり
本当のところはどうだったんだろう?
そのことが、頭からずっと離れない。
解けない永遠の謎をもらってしまったかのようだ。


そして、今日のこと。
いつも読んでいるかっこちゃんのメルマガに、
お父様が亡くなられたときの話が書かれてあった。
それが、あまりに太の旅立ち方と似ていたのと、
それから
私が「どうして。」って思っていたことに
通じることが書かれてあって、本当に驚いてしまった。
そして、読みながら、涙がまた止まらなくなってしまった。

かっこちゃんのお父様もご家族と一晩過ごすことができたこと。
ずっと意識があったこと。
呼吸器をご自分で、何度も外そうとされたこと。

旅立とうとする人は、
もちろんいろんな亡くなり方があるのはわかるけれど、
こうも似ているのか、とおもった。

そして、
かっこちゃんのお父様はご家族に、
「覚悟をきめなくちゃな」、と告げられたそうだ。

この「覚悟」という言葉が目に飛び込んできたときに、
ふうっと、
私も心の中の塊がすこしとけていったような気がした。

たしかに太は、
亡くなる数日前に、
「ひろみ、大事な話がある。
延命治療はしなくていいからね。人口呼吸器はいらないよ。」、と言っていた。

太はそのときももう覚悟していたんだとおもう。



そして、
いま、太は私にこうも言ってる気がする。

「ひろみ、どうせ考えてもわからないことを
もうそんなに考えなくていいよ。
それよりも今、この瞬間のほうが大事だよ。」って。

だから、
私が、ずっとクヨクヨと考えてしまっていたことを、
「もういいかげんにしな!」って、
こういうカタチで、届けてくれて、気付かせてくれたのかもしれない。


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冬景色の円山
数日前に札幌に戻ってきた。

当たり前だけれど、もう真冬にはいっているので、
一面銀世界。
「雪ってやっぱりいいな」とうれしくなり、
千歳の空港から札幌までのバスの中、ずっと外を眺めていた。

久しぶりに家の窓から見た円山は、
木々の葉はすべて落ち、木はまるはだか。
地面は雪に覆われ、すっかり冬の姿なのだけれど、

その日はよく晴れていて、
空の淡い青さと、白い雪に覆われた姿とが、よく似合い、
これこそ、私には、一番見慣れていた景色だった。

そして、ここに引っ越してきて、ちょうど1年が過ぎたことを思った。
この雪の円山を見ると、
引越し、新しい家の買い物、お正月、私や太の誕生日、
短かったけれど、この家で太と過ごした日々が思いだされて仕方がない。


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