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「ニセコローカルマガジンについて その3 ~九州・関西への旅」     2014.04.29
私は、この1998年の事故当時のことは、
太と再会する前のことなので、ほとんど知りません。

私たちは、20歳からの友達だったのですが、
太は20代後半で東京からニセコに移り住んだので、
久しぶりに再会したのは、裁判が終わった頃でした。
昔は、明るく笑ってばっかりいたのに、
雰囲気がずいぶん変わっていたので、びっくりしたこと覚えています。

太の人生において、この雪崩事故に遭ったことが、
どれほど大きなことであって、どれだけの想いをしたのか、
私には想像を絶し、とてもはかりしれないことです。

ただ、太がその後、
雪崩事故防止活動、雪崩調査所での活動に対して、
どれだけエネルギーをそそいで取り組んできていたのかは、
ずっとそばで見てきたので、太の想いは痛いほど感じていたつもりです。

太の背負ってきたものの重さを察し、
少しでも軽くなるように、と思いながら伴走してきたつもりでしたが、
その重さがとんでもなく重かったんだ、ということに、
太が病気になったことで、改めて気づました。

がんの原因が、この事故だったかどうかは、もちろんわかりませんが、
どれだけ自分を責めてきたんだろう、と胸が痛くなりました。

***

太が4月30日に亡くなってすぐ、
私は仕事の依頼をうけて、九州の宮崎と関西に撮影に行きました。

宮崎に着いた日に、ふと、雪崩事故で亡くなった方のお墓が、
関西から九州に移されたことを思い出しました。
太のかわりに、お墓参りをして、墓前で手をあわせたいという気持ちが
ぐっとあがってきました。
お墓の場所を伺おうと思い、友人のつてをたよりに、
亡くなられた方のご両親に電話をいれたところ、
その電話口での第一声が、
「石川さんは亡くなる前に、あの事故のことをなんと言っていましたか?
私たちは13回忌が終わった今もずっと彼を恨みつづけてきました。」、
という言葉でした。
私は、言葉を失いました。

翌日、お墓参りに伺った際に、お目にかかったのですが、
事故から10年以上たった今も悲しみの中にいらっしゃることが、
痛いほどわかりました。
子供を失う悲しみというものが、どれだけ深いものなのか、
想像を絶しました。
太を失くして3年たった今の自分のことを考えても、
家族をなくすこと、しかも子供をなくすという悲しさは
とてもつもないことなんだろうと思い、
ただただご冥福を祈ることしかそのときの私にはできませんでした。

そして、ご遺族にお会いし、その悲しみのあまりの深さから、
太の抱えていたものの重さを、
私は全然わかっていなかったことにも、
気がついて愕然としました。
太にもっとできることがあったんじゃないかと、
たまらない気持ちになりました。

その数日後、関西で、雪崩で一命をとりとめた方(女性)にも
お会いすることができました。
「お会いしないと!」、と、なぜか強く思ったのです。
初対面の私に、彼女は、
身体が雪の中で埋もれていた時の話、事故前後の話、裁判の話、
また、事故による精神的ダメージから立ち直るまでに費やした
長い年月の中でのプロセス等、
いろんな話を聞かせてくれました。
そのプロセスを経たことで、
今は、他人を癒す仕事につかれたことを伺い、
24歳で雪崩事故にあってから、本当に長い時間かかって、
ここまでこられたんだな、と思い、胸がじんとあつくなりました。

彼女が最後にぽつんと、
「石川さんが亡くなったって聞いて、
あの事故にあった4人のうち2人が亡くなったんだっていうことは、
いつまでも肉体があるわけじゃないんだ、っていうことを思ったんですよね。」、と、
つぶやかれた言葉がとても印象に残っています。

あの事故を境に、
それぞれの人生ががらりと変わってしまったこと改めて思いました。
事故をどうとらえ、どう背負いながら、それぞれが生きてきたのか。
私は、太の側からだけ今まで見てきていましたが、
それぞれの立場をほんの少しですがかいまみる機会をえて、
この事故の大きさを改めて知ることになりました。

    
そしてまた、これは全く別の側面ですが、
私は、太が旅立った直後に、お二方にお会いする機会を得て、
「一人になって、これからどう生きていくのか、
どういう生き方をするのか」、
という問いを、なげかけられたのかもしれない、と今になって思います。

太は、肉体がなくなってからも、今でも私にまだまだたくさんのことを
教え続けてくれているような気がしてなりません。
太らしいな、って気がします。

これは余談ですが、

関西から千歳への帰りの飛行機の中で、
ニセコの友達にばったり会いました。
その彼女は、雪崩事故で助かった方と親しい友達だったのです。
この偶然の出来事から、
太が亡くなった直後に入った九州と関西での仕事は、
きっと雪崩の旅だったんだろうな、
って確認したような気持ちになりました。
太は、とても気にかかっていたはずなので、
私の身体をつかって、この旅をしたかったんだろうな、って。

その後、雪崩事故で一命をとりとめた方と
時々メールをしあうようになっているのですが、
最近ご結婚され、赤ちゃんが生まれたということを聞きました。
その知らせをいただいたときに、本当にうれしく思い、
あの事故から15年の月日が流れたんだなあ、
と、とても感慨深くおもいました。

太は、この事故をとおして、たくさんのことを悩み、苦しみ、
向き合い、それゆえにその中から本当にたくさんのことを得て、
そして、全てをわかって旅立っていったように私には思えてなりません。
それほど、この事故は、太の人生にとって、
大きなものだったと思うのです。

3回目の命日を期に、
太の45年の人生が、この雪崩事故のことをなくして語れないと思い、
今後同じような事故がおきないことを切に願うと共に、
太の熱いスピリットが、
ニセコにすこしでも灯り続けていってくれることを願って、
思い切って書きました。

そして、このことを書くことにより、
私も太と一緒に過ごした人生から、
次の自分の人生に1歩ふみだそうと思えました。

最後になりますが、事故に関わる方々にとって、
とてもデリケートなことに触れた内容になってしまいましたが、
なにとぞお許しいただければ、と思います。


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